物語

Louis Bou of life

初めまして、ルイ坊です。 

 

ここでは自己紹介をさせてください。 

 

僕は現在29歳でサラリーマンとして7年働いています。

結婚して2年が経ち、共働きの夫婦です。

 

身長164cm、体重43kgと中学3年生の14歳の時から

社会人の22歳になるまでの8年もの間、身長と体重が変わりませんでした。

 

これが僕にとって長年のコンプレックスとなり、

友達からは

「ガリガリ過ぎて気持ち悪い。」

とか、

「蹴ったら骨折れそうだよね。」

などのことを言われ続け、

 

「太りたくても太れないんだよ・・・。」と悩み、

自分に自信を持つことができない人間になっていました。

 

ですが、ある整体師との出会いがあって僕は生まれ変わりました。

うつ病になって苦しい時期に整体師と出会い、1から筋トレを教わり、

体重を43kgから67kgまで増やすことができたのです。

 

身体が徐々に変わっていくたびに自分に自信を持てるようになり、

今では筋トレはなくてはならない存在に。

周りからは

「昔と変わりすぎて誰かわからなかったよ。」

とか

「雰囲気変わったね。」

って言われます。

 

更には

今まで自分に自信がないが故に彼女と付き合っても長く続きませんでした。

しかし、筋トレをして自分に自信を持てるようになり、

マッチングアプリで知り合った女性と結婚できました。

 

たしかに、筋トレを長く続ける人は少ないですし、

しかも、わざわざ苦しいことを自らやっているんですから

やってない人からしたら不思議だと感じると思います。

前までは僕も筋トレを続ける人は不思議で仕方がありませんでした。

 

ですが、今では筋トレを週に2回は必ずしていて、

筋トレをしない人が不思議でしょうがないです。

 

でも、僕は最初から筋トレを続けられる人ではなく、

小学生~大学生の時に何度も何度も筋トレを本気でやろう!

って思っていざ挑戦!

 

ですが、すべて三日坊主。

腕立て伏せを10回やっただけ。

そのぐらい筋トレを続けることができませんでした。

 

しかし、今では仕事終わりに最低1時間、休みの日は1時間半。

1週間に最低2回の筋トレを6年間続けています。

 

そこであなたは一つの疑問が浮かぶと思います。

僕がなぜ、この長い期間、筋トレを続けて自分を変えてこれたのか。

 

まず、あなたが思い浮かぶことは

筋トレを続けるために飲みやすいプロテインを飲むようにしたり、

YouTubeで筋トレ動画を見てモチベーションを上げたりすることでしょう。

でも、そんな小手先のテクニックだけではないのです。

 

そこで、筋トレの本当の神髄を含めて

これから自己紹介をしていきたいと思います。

 

なぜ、筋トレを続けるのか。

それは「僕が母親の分まで生きて、父親を支えていく。」

という強い思いがあるからです。

 

僕は小さい時から

わがままで欲しいものがあったら

買ってもらえるまで店に居座って親を困らせる問題児。

 

中学では

景品が欲しくて進研ゼミをはじめましたが、長く続かず。

次は「友達が塾に行ってるから同じところに行きたい」と、せがって

月3万円の塾に行かせてもらいました。

しかし、真面目に勉強することもなく、

なんとなく通っていたので、成績も普通以下。

 

部活は剣道部に入りましたが、

練習で3年生の先輩に滅多打ちにされて、

何個も頭にたんこぶができる始末。

ぶつかり稽古の時には

体重が軽すぎて漫画のように飛ばされて壁に打ち付けられ、

完全に心が折れた僕は

10万以上する新品の胴着を買ってもらったにも関わらず

3か月で辞めました。

 

高校では

「姉が通っていた高校だから。」

という理由で私立高校に行かせてもらい、

通学時間が1時間半かかる距離で交通費にもお金がかかっていました。

部活は家から遠いとの理由で帰宅部。

 
家に帰ったらパソコンのスイッチを起動するのが習慣化され、

スカイプをつないでネット友達と夜中の2時までオンラインゲームをやっていました。

もちろん、授業中は睡眠学習。

休みの日は12時間以上やることが日常でした。

一つのことにハマってしまうと、のめり込んでしまうタイプです。

 

大学に入学する時は

「受験勉強したくない。」

「家から近くが良い。」

という理由で

1年間130万円する私立大学に指定校推薦枠で入学させてもらいました。

 

姉には何度も何度も

「この金食い虫!!!」って言われていましたが、

特に何も将来のことを考えていない自分には

他人事のように聞き流していました。

 

大学では

オンラインゲームから少し離れて外に出るようになり、

夜中の2時にボウリングをしにいったり、朝まで友達と宅飲み。

 

今思えば本当に社会不適合者の人間でした。

 

ですが、小学生から高校生まで家で遊んできた僕は

2か月に1回は風邪を引いたり、

頻繁に片頭痛がおきたりと身体が本当に弱い人間だったのです。

 

そうこうしてるうちに就職活動の時期になってしまいました。

今までやったことのないことばかりで不安で頭がいっぱいに。

 

そして、就職活動では30社受けましたが、すべて不合格。

今までなんも努力してこなかったツケがまわってきたと思いました。

続々と周りの内定が決まる中、一人だけ全然内定をもらえない。

 

30社受けてるのに面接に行ったのが1回のみ。

履歴書がまともに書けない。という以前に実績も全くないので書く内容がない。

 

農業機械の会社の志望動機がクソ過ぎて今でも覚えています。

「御社に志望した理由は、普段じゃがいもを食べる時に袋についているラベルを見ます。

そのラベルを見て、この会社がいつも美味しいじゃがいもを作ってくれているんだ。

と、思い、これからは自分が提供できる側になりたいと思い志望しました。」

 

この文を面接でカミカミになりながら言うんですから。

しまいには自分で言っておいて

「自分、何言ってるんだ。」と、思って途中で笑ってしまうほどヒドかったんです。

そりゃ、落ちるに決まっていると思います。

 

もし、自分が将来、面接官の立場でしたら確実に落としていたぐらいヒドイ面接でした。

でも、「今頑張らないと今後の人生に影響が出る」と思い、

諦めず就職活動を続けた末

学校の求人に助けられてなんとか就職先が決まりました。

 

そして、晴れて社会人。

「まずは資格をとって、頑張るぞー!」と、意気込みました。

 

しかし、そんなつかの間、

社会人1年目の秋にある出来事が起きたのです。

ここは僕の人生のターニングポイントと言えてしまうかもしれません。

 

58歳の母親を肺がんで亡くします。

 

就職活動中から闘病生活で苦しんでいる母親をずっと見てきました。

昔は太っていたことをバカにしていた僕ですが、

日に日にやせ細っていく母親を見て

「本当に死んでしまったらどうしよう」と、

いてもたってもいられなくなって肺がんについてネットで調べ続けました。

 

調べれば調べるほど肺がんの怖さを知ることになり、

夜中に一人で泣いたことも何度もありました。

 

母親は「少しでも治る可能性があるのなら」と、

抗がん剤、放射線治療、温熱療法、漢方薬など、

ありとあらゆる治療を続けました。

 

一時的に体調が良くなっても、

またすぐに体調を崩す。の繰り返しでした。

僕ができることは母親を病院まで車で送ってあげることと、

ただ、そばにいてあげることしかできませんでした。

 

今でも忘れられない母親との会話があります。

母親は「もし、ママが死んだら保険金出るからそれで大学の奨学金払いなさい。」と、

言ったのです。

 

僕は普段、自分の気持ちを表に出す性格ではありませんでしたが、

その時は感情を我慢しきれずに泣きながら

「そんなこと言わないで!お金なんかより母さんに生きててほしいよ・・・。」と。

お互い涙を流しながら会話をしたのを今でも鮮明に覚えています。

 

闘病生活は2年間続きました。

新聞には、がんの新しい治療法が

近々、日本にもくるかもしれないとの情報に期待を寄せていましたが、

認可がおりず、それも叶いませんでした。

 

今までお金をたくさんかけてもらって、

大切に育ててもらったのに、何も恩返しができないまま

天国にいってしまったことが

僕は今でも後悔しています。

 

父親は母親の死のショックでメニエール病を発症し、

(メニエール病とは難聴や耳鳴りを伴い、めまいを繰り返し起こす原因不明の病気です。)

今でもこの病気に悩まされながら生活のために働いています。

僕は「少しでも父親の支えになれるように立派な社会人になるんだ。」と、誓いました。

 

僕には姉が2人いるのですが、

2人とも難病をもっていて、毎月のように病院に通っています。

母親を失ってから

「父親は大変な思いを。姉は難病と闘っているのに、僕が支えていかなくてどうする!」


「これから家族を支えていくのは自分だ。」と、その時思いました。

 

「これから仕事をがんばっていかなくてはいけない。」

「資格試験に合格しなければいけない。」

「家族を支えていかなくてはいけない。」

やらなければいけないことが山ほどありました。

「今まで何をやっていたんだ自分!」と何度も自分を責めました。

 

母親の死後、3か月間悩み続けてある時から

突如、僕は意識を失って倒れこむようになります。

救急病院に連れていかれますが、原因は不明。

 

他にも不整脈がおきるようになったり、

動悸、息切れ、記憶障害の症状が出始め、

全てが初めての症状で自分が怖くなりました。

 

循環器内科、精神科、脳神経外科と色んな病院を転々としました。

精神科では、医師の説明が理解できず、途中で帰宅。

そして最後に行きついた脳神経外科での診察で

うつ病と診断されました。

「今は軽症ですが、環境を変えなければ重症化しますよ。」と言われ、

 

「せっかく頑張って入った会社なのに・・・。」

「内定をもらった時に母親も一緒に喜んでくれたのに・・・。」

と、なんとなく想像していたが、まさか自分が。

 

そこで、母親と最期の約束を思い出しました。

「これからみんなを支えていくために頑張るからね、今までありがとう。」と。

 

その約束も果たせず、自分の身体がついていかなくて、

やめなくちゃいけないことになるなんて・・・。

家族会議で何度も話し合いをしました。

 

その時、勉強していた資格試験は

約半年間、会社の学校に入って授業が終わったら

専用の寮で過ごさなければなりません。

 

寮は2人部屋でプライベートの時間もなく、

今まで学校が終わったら好きなことをしていたのにできない。

家では一人でゆっくりしたいのに、同部屋に人がいる。

勉強に集中させるための仕組みなのはわかってはいましたが、

環境が変わりすぎて何をして楽しめばいいかわからなくなっていました。

 

門限は月曜日から金曜日は22時まで。金曜日の夜には家に帰ることを許されます。

そして、日曜日の23時には戻ってこなくてはいけません。

門限までに戻らなかったら即退学になり、どこかへ飛ばされてしまいます。

門限なんて中学生以来。

やること全てに制限されて何度も発狂しそうになりました。

 

科目数は13個で1日8時間の座学。

次々と新しいことを覚えていかなくてはならないので復習と予習は必須でした。

1日の勉強時間は12時間を超えていて、

今まで真面目に勉強をしてこなかった自分にとっては地獄のような生活でした。

 

そして、もし資格をとれなかったらどこの職場に飛ばされるかわからない。

飛ばされた後は、いじめられて会社を辞めていくことが多い。

資格をとれても現場へ行ったときに精神を病む人が多い。

と聞かされていた。

 

受かっても、受からなくても地獄。

「どうすればいいんだ。逃げ道がない。」と、葛藤が止まりませんでした。

 

そんな時に

「出来る、出来ないじゃない。やるか、やらないか。どっちかだよ。」

という、姉の言葉に励まされて

「まだ…頑張ってみよう。」と、思ったのです。

 

しかし、授業が終わってから復習と予習をしなくなり、

授業中の質問も答えられなくなっていきました。小テストも赤点ばかり。

先生に怒られながらも、ひたすら時間が過ぎるのを待ちました。

 

そんな時に、左の肩甲骨の痺れが気になりはじめて

整骨院へ行くことになりました。

 

すると「よく、こんな身体で生きてるね。」と言われ、

「え?そんなヒドイの?僕の身体・・・。」と

思わず声が出ました。

 

整体師いわく

背骨が湾曲していて、骨盤も開いていて、

右肩が極端に下がっている。

 

歪みまくっていた身体とのこと。

 

整体師からは

「普通は学生の時に部活や外遊びで身体を作り上げて、

社会人になった時に元気に働くんだよ」

 

「学生は社会人の準備期間。

でも、君は学生時代に怠けたから、

 

これからは仕事を覚えつつ、

同時に体作りしないと、

この先、生きていけないよ。」と、

 

初対面なのにお叱りを受けました。

しかし、その言葉が僕の心に響いたのです。

 

「そうだ。僕は今まで楽をし過ぎたんだ。

これから家族を支えていかなくちゃいけないんだ!

健康な身体になって、元気よく働いて、生きていくんだ!

この整体師の言う通り、筋トレする!」

と、覚悟を決めたのです。

 

それから定期的に整体へ通い、

全身の筋肉揉みほぐしを30分と

骨盤矯正15分、行なってから筋トレといった流れ。

 

いつも胸と背中と腹筋のトレーニングを1時間ほど。

 

筋トレを続けて1か月が経った頃、

今まで左肩甲骨に感じていた痺れが

段々と楽になっているのを感じました。

 

石のように硬かった肩コリも低反発枕のように柔らかくなり、

頻繁になっていた片頭痛もおきなくなっていました。

 

身体の不調が少しずつ快復し、

最初の頃のように復習と予習ができるようになっていました。

そして、気づいた時には資格試験に合格していました。

 

筋トレを続けて3か月が経った頃、

8年もの間、体重が50kgを超えることはありませんでしたが、

初めて50kgを超えたのです。

体重43kgの写真がコチラ。

2013年1月10日 43kg

 

体重50kgの写真がコチラ。

2013年4月10日 50kg

 

身長164cmのBMIと適正体重

(BMIとは体重と身長の関係から肥満度を示す体格指数)

出典:https://keisan.casio.jp/exec/system/1161228732

 

外見の変化だけではなく、内面にも変化が現れました。

前までは

「合格したとしても、この後どうなるんだろう・・・。」

とか

「職場でうまくやっていけるかな・・・。」

というような日頃からネガティブ思考で生きていました。

 

ですが、今では

「やってみないとわからないしょ!」

とか

「失敗してもなんとかなる!」

というような前向きな気持ちで新しいことに挑戦できるようになりました。

 

そして家族への心配事も

「家族のことは俺が元気に働いて支えていく!」

と、前までの不安はすべて消え去り、今は自分の自信に満ち溢れています。

 

そして、筋トレを始めてから4か月が経つ頃、

突然、意識を失って倒れたり、不整脈がおきたり、

動悸、息切れ、記憶障害などのうつ病の症状がすべてなくなっていました。

 

整体にいったおかげで筋トレというものを知って、

薬に頼らず自力で辛い症状を治すことができました。

この経験は自分にとって大きな自信となったのです。

 

細すぎてバカにされてきた僕ですが、

夏にはTシャツ姿で自信を持って外に出歩くことができています。

 

そして、周りからの見られ方が変わって後輩や先輩からも頼られる存在になり、

仕事に行くことが楽しくなりました。

 

ずっとオンラインゲームで家に引きこもっていた

昔の自分よりもとても生き生きして過ごせるようになったのです。

 

そして自分に自信がついたことによって、

マッチングアプリで知り合った女性と結婚できました。

「人生って、こんなに楽しいんだ。」と気づいたのです。

 

最初はバーベルシャフトのみ(20kg)のベンチプレスですら

グラグラさせながらもギリギリ挙げれるくらいのレベルでしたが、

筋トレを続けたことで

20kg、30kg・・・60kgと自分の体重を挙げれるまでに成長しました。

 

体重は筋トレを始めてから3か月で43kgから50kg。

約4年後には67kgまで増やすことができました。

(2019年3月29日時点では減量をして60kgで維持しています。)

体重67kgの写真がコチラ。

 

2018年12月19日 67kg

 体重60kgの写真がコチラ。

2019年3月29日 60kg

 

出典:https://keisan.casio.jp/exec/system/1161228732

 

今まではマックのてりやきバーガーを7個食べても太れない。

カレーを3杯(米1kg)食べたとしても、

全く太れなかった体質を改善できたんです。

 

整体師の言葉を信じ、やり続けたことで自分を変えることができたのです。

筋トレは人生を変えるのです。

母親との死別や、うつ病になった

などの人生に関わる体験をしたから本気で言えるのです。

 

僕はこれからも死ぬまで筋トレを続けますし、

元気な身体を保ちながら

大切な家族を守っていきます。

 

そんな僕の人生を大きく変えてくれた筋トレをより多くの人に伝えたいので

これから僕は情報発信をしていきたいと思います。

それでは、よろしくお願いします。

 

体重43kgから60kg

 

無料でAmazon書籍が読めます。





こんにちは、ルイ坊です。




今回、僕が3ヶ月で43kgから50kgに増やし、


現在60kgになるまでどうやって身体を変えたのか。





その物語がAmazonで発売されることになりました!!



それを記念して期間限定で、その書籍を無料でお渡ししています。




僕の細マッチョになるまでの葛藤や


身体が変わったことで人生がどのように変わったのかを話しています。



たくさんの人からも感想をいただいて本当に嬉しい限りです。





スラスラ読めて数分で読み終わることができるので


是非、読んでみてください。



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